全体主義、そして個人主義。
あなたは「個人主義」と聞いた時、どんなことをイメージしましたか?
おそらく、ほとんどの方が「自分勝手」「利己的」に近いイメージを描いたと思います。
ですが、日本国憲法は「個人主義」を大切にしている内容だということはご存知でしたか?
ということは?
そう、「個人主義」は「自分勝手」「利己的」とは全く違うものだということです。
そしてもうひとつ、「全体主義」とは?
そして、この全体主義は、自民党が目指している改憲草案の内容なのですが、
一体どういうことになるのでしょうか?
ここでは、それぞれの意味、そして関係してくる憲法の紹介をします。
全体主義、そして個人主義。
あなたは「個人主義」と聞いた時、どんなことをイメージしましたか?おそらく、ほとんどの方が「自分勝手」「利己的」に近いイメージを描いたと思います。
ですが、日本国憲法は「個人主義」を大切にしている内容だということはご存知でしたか?
ということは?そう、「個人主義」は「自分勝手」「利己的」とは全く違うものだということです。
そしてもうひとつ、「全体主義」とは?
そして、この全体主義は、自民党が目指している改憲草案の内容なのですが、一体どういうことになるのでしょうか?
ここでは、それぞれの意味、そして関係してくる憲法の紹介をします。
個人主義とは?
まず、個人主義とはなんでしょうか?それは……
集団の中において、基本的人権等のようなお互いの権利を、
お互いに尊重しあう考えのことです。
私たちは一人だけでは生きられません。
直接的・間接的にしろ、必ず誰かとの関わりを持っています。
そういった「社会の中」で、個人が個人として尊重され、お互いを尊重しあうことです。
決して利己的な意味でも、私欲を優先させるという意味でもありません。
自己責任論、他人に無関心だなんて、実はもってのほかです。
みんなが同じ世界で生きている。助け合いながら生きている。
だけど、自分とは違うのだということを認め、尊重する。尊重しあう。
そして、社会(国家)は個人のために存在しています。
そういう考えが個人主義です。
まず、個人主義とはなんでしょうか?それは……
集団の中において、基本的人権等のようなお互いの権利を、お互いに尊重しあう考えのことです。
私たちは一人だけでは生きられません。直接的・間接的にしろ、必ず誰かとの関わりを持っています。
そういった「社会の中」で、個人が個人として尊重され、お互いを尊重しあうことです。決して利己的な意味でも、私欲を優先させるという意味でもありません。
自己責任論、他人に無関心だなんて、実はもってのほかです。みんなが同じ世界で生きている。助け合いながら生きている。だけど、自分とは違うのだということを認め、尊重する。尊重しあう。
そして、社会(国家)は個人のために存在しています。そういう考えが個人主義です。
全体主義とは?
では、全体主義とはどういう意味でしょうか?それは……
個人は全体(社会)のために存在し、
個人の利益よりも全体の利益を優先するという考えのことです。
個人の人権は、社会に対して奉仕できているかにおいてのみ認められます。
そう、ここに個人の人権の尊重などというものは存在しません。
あくまでも「全体(社会・国)の利益を優先に動く」ことが大事になります。
個人が、社会に合わせていかねばならないのです。
考えの違う人は排除されていきます。
それが全体主義です。
では、全体主義とはどういう意味でしょうか?それは……
個人は全体(社会)のために存在し、個人の利益よりも全体の利益を優先するという考えのことです。
個人の人権は、社会に対して奉仕できているかにおいてのみ認められます。
そう、ここに個人の人権の尊重などというものは存在しません。あくまでも「全体(社会・国)の利益を優先に動く」ことが大事になります。個人が、社会に合わせていかねばならないのです。考えの違う人は排除されていきます。
それが全体主義です。
日本国憲法では「個人主義」を大切にしている
現憲法であるに日本国憲法においては、個人主義を大切にしています。
そのことは第13条にて明記されています。
ですので、もし個人の人権を蔑ろにしなければ成り立たないような状況があるのならば、
変わるべきは社会の方だと言うことができます。
対応する法律を作ることや、社会的な整備を求めることもできます。
それが権利だからです。
また、法律を作る時も、国政を行う上でも、
中身が「個人を尊重したもの」となっていなければなりません。
それが「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」なのです。
現憲法であるに日本国憲法においては、個人主義を大切にしています。そのことは第13条にて明記されています。
ですので、もし個人の人権を蔑ろにしなければ成り立たないような状況があるのならば、変わるべきは社会の方だと言うことができます。対応する法律を作ることや、社会的な整備を求めることもできます。それが権利だからです。
また、法律を作る時も、国政を行う上でも、中身が「個人を尊重したもの」となっていなければなりません。それが「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」なのです。
改憲草案では「全体主義」を求めている
ですが、自民党が提唱している改憲草案は個人主義を排除し、全体主義を目指すものとなっています。
まずは改憲草案の条文の原文を。
現憲法から、何がどう変えられたのかわかるようにしてみたのが下記です。
赤文字になっているところが、現憲法からの変更箇所です。
(個人の尊重と公共の福祉)(人としての尊重等)
全て国民は、個人 人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉 公益及び公の秩序に反しない限り、
立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする 最大限に尊重されなければならない。
「公益及び公の秩序」というのは、いわば国の利益です。
つまり、国から尊重されたければ、国の利益に反しないようにね、ということを言っているのです。
また、「個人」という言葉を「人」にしたところからも、
個人を軽んじようしているのがわかると思います。
全体主義となってしまえば、まさしく「国が望む社会」に国民の方が合わせなければならなくなります。
私たちは「国益となるように」考え、生きなければならなくなるのです。
そして、国が求めれば基本的人権に制限をかけられたり、国によって侵害されてしまったとしても、
違憲だという批判さえできなくなってしまいます。
詳細については、憲法第13条の記事にて、現憲法そして改憲草案について解説しています。
ですが、自民党が提唱している改憲草案は個人主義を排除し、全体主義を目指すものとなっています。まずは改憲草案の条文の原文を。
現憲法から、何がどう変えられたのかわかるようにしてみたのが下記です。赤文字になっているところが、現憲法からの変更箇所です。
(個人の尊重と公共の福祉)(人としての尊重等)
全て国民は、個人 人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉 公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする 最大限に尊重されなければならない。
「公益及び公の秩序」というのは、いわば国の利益です。
つまり、国から尊重されたければ、国の利益に反しないようにね、ということを言っているのです。また、「個人」という言葉を「人」にしたところからも、個人を軽んじようしているのがわかると思います。
全体主義となってしまえば、まさしく「国が望む社会」に国民の方が合わせなければならなくなります。私たちは「国益となるように」考え、生きなければならなくなるのです。
そして、国が求めれば基本的人権に制限をかけられたり、国によって侵害されてしまったとしても、違憲だという批判さえできなくなってしまいます。
詳細については、憲法第13条の記事にて、現憲法そして改憲草案について解説しています。
「差別」も多様性のひとつ?寛容でなければならない?
「差別を受け入れることもまた個人の尊重でしょ?」という人もいますよね。
性的少数者、障害者、女性、外国人(特に白人以外)、在日韓国人……
そういった人々に対して「差別」することも「多様性のひとつ」であり、
差別するのも自由であるはずだ!差別する心も受け入れるべきだ!
差別した当事者、そしてそのような差別している人を擁護する側からこのような意見も出てきます。
(擁護する人もまた差別している側なのですが、あえて分けました)
ですが、本当にそうでしょうか?
いいえ。違います。
「差別する」というのは、結局は「その人の存在を否定しているに等しい」行為です。
「認めない・受け入れない」から「差別」する。
生きていてもいいけど俺の視界に入るなよ、というのも、結局は「あなたの存在を否定したい」という意味ですよね。
「認めていない」のに、それは「多様性を受け入れている」ことになるのでしょうか?
むしろ矛盾していますよね。
多様性、つまりは「自分とは違う存在である」ということを「否定して差別」しているのですから。
なので、「差別をする」ことは多様性でもなんでもありません。
そして、差別を容認する社会というのは、全体主義の社会だとも言えるでしょう。
差別する側は多くの場合において「マジョリティ」側なのですから。
「差別を受け入れることもまた個人の尊重でしょ?」という人もいますよね。
性的少数者、障害者、女性、外国人(特に白人以外)、在日韓国人……そういった人々に対して「差別」することも「多様性のひとつ」であり、差別するのも自由であるはずだ!差別する心も受け入れるべきだ!
差別した当事者、そしてそのような差別している人を擁護する側からこのような意見も出てきます。(擁護する人もまた差別している側なのですが、あえて分けました)
ですが、本当にそうでしょうか?
いいえ。違います。
「差別する」というのは、結局は「その人の存在を否定しているに等しい」行為です。「認めない・受け入れない」から「差別」する。生きていてもいいけど俺の視界に入るなよ、というのも、結局は「あなたの存在を否定したい」という意味ですよね。
「認めていない」のに、それは「多様性を受け入れている」ことになるのでしょうか?
むしろ矛盾していますよね。多様性、つまりは「自分とは違う存在である」ということを「否定して差別」しているのですから。
なので、「差別をする」ことは多様性でもなんでもありません。
そして、差別を容認する社会というのは、全体主義の社会だとも言えるでしょう。差別する側は多くの場合において「マジョリティ」側なのですから。
後記
日本でいう「個人主義」は、「利己的」な意味で使われることが多いようです。
かつ、「個人を尊重する」ことを、
「他人が困っていても放っておくこと」「自助」「自己責任」
と同一視している人も多いように見受けられます。
そういうことではなく、他人と相互理解を深め、違いを認め、お互いに尊重しあう。
そのうえで、同じ社会(集団、団体等)で生きる人同士で助け合う。
助け合いつつも、お互いの違いを認めている。
尊重することと助け合うことは両立するものではないでしょうか。
そして国は国民の「個人」を最大限に尊重し、どんな個人でも可能な限り
幸せに人間らしく生きられる社会にしていく義務があります。
日本でいう「個人主義」は、「利己的」な意味で使われることが多いようです。
かつ、「個人を尊重する」ことを、「他人が困っていても放っておくこと」「自助」「自己責任」と同一視している人も多いように見受けられます。
そういうことではなく、他人と相互理解を深め、違いを認め、お互いに尊重しあう。そのうえで、同じ社会(集団、団体等)で生きる人同士で助け合う。助け合いつつも、お互いの違いを認めている。
尊重することと助け合うことは両立するものではないでしょうか。
そして国は国民の「個人」を最大限に尊重し、どんな個人でも可能な限り幸せに人間らしく生きられる社会にしていく義務があります。