【日本国憲法第20条の解説】信教は自由だが、特権や政治的な権力は認めない

日本国憲法第20条

こちらは日本国憲法第20条の解説記事です。

この第20条が伝えたいポイントというのは……

どの宗教を信じようもそれは個人の自由です。
何も信じない、というのも、大いに自由です。全部信じるのも、もちろん。

こういったことは、他人から決して強要されるものではありません。
国が、特定の宗教を強要することもしてはいけません。
また、いくら信教の自由があるとはいえ、
それを盾に宗教団体が「何をしてもいい」というわけではありません。

さらに、国(国家権力側や、地方公共団体等)は。
特定の宗教(特定の神社等含む)をえこひいきしたり、政治に利用したりしてはいけません。
特定の宗教を宣伝するようなこともしてもいけません。

どの宗教を信じようもそれは個人の自由です。何も信じない、というのも、大いに自由です。全部信じるのも、もちろん。

こういったことは、他人から決して強要されるものではありません。国が、特定の宗教を強要することもしてはいけません。また、いくら信教の自由があるとはいえ、それを盾に宗教団体が「何をしてもいい」というわけではありません。

さらに、国(国家権力側や、地方公共団体等)は。特定の宗教(特定の神社等含む)をえこひいきしたり、政治に利用したりしてはいけません。特定の宗教を宣伝するようなこともしてもいけません。

具体的にはどういうことなのか?

そして、自民党が推し進めようとしている改憲草案の中身は?
その問題点とは?そういった解説・考察をしています。

ぜひ最後まで読んでもらえたら嬉しいです!

目次

日本国憲法第20条【信教の自由】

意訳

どんな宗教を信じようとも、それは個人の自由である。

ただし、どんな宗教団体でも、国から特権を受けたり、政治的なことに権力を使ってはいけない。
国は主教教育等、どんな宗教活動でもしてはいけない。

どんな宗教を信じようとも、それは個人の自由である。

ただし、どんな宗教団体でも、国から特権を受けたり、政治的なことに権力を使ってはいけない。国は主教教育等、どんな宗教活動でもしてはいけない。

原文

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

日本国憲法第20条を更に深堀してみよう

要点①:信教の自由

現憲法においては、信仰の自由を広く認めています。
具体的には下記の3つの自由が認められています。

信仰の自由

ある宗教を信じること。または信じない(無宗教でいる)こと。
途中で宗旨を替える(信仰していた宗教を替える)こと。
これらすべて、個人が自分で決めていい、という自由です。

宗教的行為の自由

信仰している宗教に関する儀式や行事、布教行為などを行う自由も認められています。
ですが、これにはもちろん、信者でない人はもちろんのこと、信者であろうとも、
そういった宗教行為をしない自由もあります。
そして、そういったことへの参加を強制されない自由も含まれています。

宗教的結社の自由

特定の宗教を宣伝したり、仲間同士で宗教行為を行うことを目的とした団体を結成する自由のことです。

現憲法においては、信仰の自由を広く認めています。具体的には下記の3つの自由が認められています。

信仰の自由

ある宗教を信じること。または信じない(無宗教でいる)こと。途中で宗旨を替える(信仰していた宗教を替える)こと。これらすべて、個人が自分で決めていい、という自由です。

宗教的行為の自由

信仰している宗教に関する儀式や行事、布教行為などを行う自由も認められています。ですが、これにはもちろん、信者でない人はもちろんのこと、信者であろうとも、そういった宗教行為をしない自由もあります。
そして、そういったことへの参加を強制されない自由も含まれています。

宗教的結社の自由

特定の宗教を宣伝したり、仲間同士で宗教行為を行うことを目的とした団体を結成する自由のことです。

要点②:絶対的な自由を認めているわけではない

憲法は各条文が単独として生きているわけではありません。
それぞれが繋がっています。

それに伴い、いくらこの第20条において「信仰の自由」が認められているとはいえ、
何もかもが自由というわけではありません。

例えば「宗教的行為の自由」。
宗教的行為の自由が認められているからといえ、
公共の福祉(誰もが安心できる社会)を脅かすような儀式をしたり、
そのような手段で勧誘したり献金を強要する等、そういった行為は認められていません。

「宗教的結社の自由」においても、
その結社の行為・目的が反社会的なものであれば、当然罰せられます。

このように、他人の権利を侵害するもの・衝突するものである場合は、
必要最小限度の制限を受けます。

例えば、「オウム真理教解散命令」。
反社会的なものだということで、制限がかけられた(解散命令が出た)のです。

憲法は各条文が単独として生きているわけではありません。それぞれが繋がっています。

それに伴い、いくらこの第20条において「信仰の自由」が認められているとはいえ、何もかもが自由というわけではありません。

例えば「宗教的行為の自由」。宗教的行為の自由が認められているからといえ、公共の福祉(誰もが安心できる社会)を脅かすような儀式をしたり、そのような手段で勧誘したり献金を強要する等、そういった行為は認められていません。

「宗教的結社の自由」においても、その結社の行為・目的が反社会的なものであれば、当然罰せられます。

このように、他人の権利を侵害するもの・衝突するものである場合は、必要最小限度の制限を受けます。

例えば、「オウム真理教解散命令」。反社会的なものだということで、制限がかけられた(解散命令が出た)のです。

要点③:政教分離原則

第3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」は、
いわゆる政教分離原則です。

そう、明確に、国家と宗教の分離が宣言されています。

それはつまり「国会の非宗教性」及び「宗教的中立性」のことです。

とはいえ、一切のかかわりを排除するという意味ではありません。
例えばミッション系の学校等のように、宗教法人が立ち上げた学校に対しても補助金は交付されます。

じゃあ、この第3項って意味ないんじゃない?と思った方もいるかもしれませんね。

この第3項が設けられた目的は、国民の「信仰の自由」を守るためという解釈がされています。

つまり、国家権力側の「とある行為」がこの第3項に違反していないかどうか?という判断基準は、
国民の信仰の自由が守られているかどうか?になっているということです。

具体的には、
その国家権力側が行った行為に以下の要素が含まれていないかどうか?です

  • 目的に宗教的意義があるかどうか
  • 関わった結果・効果に、宗教に対する援助や助長、促進という結果が伴うかどうか
  • 関わった結果として、圧迫・干渉という結果をもたらしていないかどうか

このような要素が含まれている場合は違憲とみなされます。
ですので、単純に「定められた基準に則って補助金を出す」だけの行為は違憲にならないのもわかりますね。

第3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」は、いわゆる政教分離原則です。

そう、明確に、国家と宗教の分離が宣言されています。

それはつまり「国会の非宗教性」及び「宗教的中立性」のことです。

とはいえ、一切のかかわりを排除するという意味ではありません。例えばミッション系の学校等のように、宗教法人が立ち上げた学校に対しても補助金は交付されます。

じゃあ、この第3項って意味ないんじゃない?と思った方もいるかもしれませんね。

この第3項が設けられた目的は、国民の「信仰の自由」を守るためという解釈がされています。

つまり、国家権力側の「とある行為」がこの第3項に違反していないかどうか?という判断基準は、国民の信仰の自由が守られているかどうか?になっているということです。

具体的には、その国家権力側が行った行為に以下の要素が含まれていないかどうか?です

  • 目的に宗教的意義があるかどうか
  • 関わった結果・効果に、宗教に対する援助や助長、促進という結果が伴うかどうか
  • 関わった結果として、圧迫・干渉という結果をもたらしていないかどうか

このような要素が含まれている場合は違憲とみなされます。ですので、単純に「定められた基準に則って補助金を出す」だけの行為は違憲にならないのもわかりますね。

この第20条の改憲草案はどんな内容?

自民党はこの第20条をどのように改憲しようとしているのでしょうか。
そして、その問題点とは?
簡単にいうと、以下の通りです。

何をどう変えようとしている?

政治が宗教に関われるようにしようとしています。

問題点は?

信教の自由が保障されない可能性があります。
また、国が特定の宗教を特別扱いすること(癒着等)が、憲法上可能となります。
つまり「政教分離の原則」が無効化されてしまいます。
(政治家(主に自民党)と統一教会が結びつくことも合憲となってしまいかねません。)

このことは、明治憲法時代、国家神道が優遇され軍国主義と結びつき、戦争になったこと。
そして、他の宗教の信者は弾圧を受けた時代へ逆戻りしかねないことを示唆しています。

信教の自由が保障されない可能性があります。また、国が特定の宗教を特別扱いすること(癒着等)が、憲法上可能となります。つまり「政教分離の原則」が無効化されてしまいます。(政治家(主に自民党)と統一教会が結びつくことも合憲となってしまいかねません。)

このことは、明治憲法時代、国家神道が優遇され軍国主義と結びつき、戦争になったこと。そして、他の宗教の信者は弾圧を受けた時代へ逆戻りしかねないことを示唆しています。

改憲草案の原文を紹介します。そして具体的に考察もしてみました

改憲草案原文:第20条

※赤文字が変更箇所です。

(信教の自由)
信教の自由は、何人にたいしてもこれを保障する。
いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない

2
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。
ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない。

(信教の自由)
信教の自由は、何人にたいしてもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない

2
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない。

自民党による言い分

国等による宗教的活動の禁止規定の明確化(20 条3 項)

国や地方自治体等による宗教教育の禁止については、特定の宗教の教育が禁止されるものであり、
一般教養としての宗教教育を含むものではないという解釈が通説です。
そのことを条文上明確にするため、「特定の宗教のための教育」という文言に改めました。

さらに、最高裁判例を参考にして後段を加え、
「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないもの」については、
国や地方自治体による宗教的活動の禁止の対象から外しました。
これにより、地鎮祭に当たって公費から玉串料を支出するなどの問題が現実に解決されます。

(日本国憲法改正草案Q&A増補版より引用)

国等による宗教的活動の禁止規定の明確化(20 条3 項)

国や地方自治体等による宗教教育の禁止については、特定の宗教の教育が禁止されるものであり、一般教養としての宗教教育を含むものではないという解釈が通説です。そのことを条文上明確にするため、「特定の宗教のための教育」という文言に改めました。

さらに、最高裁判例を参考にして後段を加え、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないもの」については、国や地方自治体による宗教的活動の禁止の対象から外しました。これにより、地鎮祭に当たって公費から玉串料を支出するなどの問題が現実に解決されます。

(日本国憲法改正草案Q&A増補版より引用)

改憲草案の問題点①:信教の自由の保障の範囲が定められる

現憲法では、信教の自由は「何人に対しても」保障されています。
これが、改憲草案では単純に「信教の自由は、保障する」だけとなっています。

なぜ、わざわざ「何人に対しても」という言葉を削除したのでしょうか。

そのまま素直に考えれば「保障されない人もいますよ」ということになりますね。

では、どんな人に対しては保障する気がないのか。
それは、他の条文を読むと、自民党の思惑が見えてきます。

第12条(自由及び権利の保持義務と公共福祉性)、第13条(個人の尊重と公共の福祉)において、
「公共の福祉」という言葉が「公益及び公の秩序」という言葉に置き換えられています。

公共の福祉とはいわば、誰もが安心できる社会のことです。
対して、公益及び公の秩序とは、国の利益・国の思う秩序のことです。

つまり、分かりやすく言えば「国が求める生き方をしなさい。国民は国のために生きなさい」です。

そう、この改憲は、
国(というより自民党)の方針にそぐわない人の信教の自由は認めませんよ、
といっているようなものなのですね、実は。

「何人も」という言葉を削除し、
先ほど紹介した他の条文等で国民の行動を制限できるようにしたことで、
信教の自由を制限できる余地を作ったのです。

現憲法では、信教の自由は「何人に対しても」保障されています。これが、改憲草案では単純に「信教の自由は、保障する」だけとなっています。

なぜ、わざわざ「何人に対しても」という言葉を削除したのでしょうか。

そのまま素直に考えれば「保障されない人もいますよ」ということになりますね。

では、どんな人に対しては保障する気がないのか。それは、他の条文を読むと、自民党の思惑が見えてきます。

第12条(自由及び権利の保持義務と公共福祉性)、第13条(個人の尊重と公共の福祉)において、「公共の福祉」という言葉が「公益及び公の秩序」という言葉に置き換えられています。

公共の福祉とはいわば、誰もが安心できる社会のことです。対して、公益及び公の秩序とは、国の利益・国の思う秩序のことです。

つまり、分かりやすく言えば「国が求める生き方をしなさい。国民は国のために生きなさい」です。

そう、この改憲は、国(というより自民党)の方針にそぐわない人の信教の自由は認めませんよ、といっているようなものなのですね、実は。

「何人も」という言葉を削除し、先ほど紹介した他の条文等で国民の行動を制限できるようにしたことで、信教の自由を制限できる余地を作ったのです。

改憲草案の問題点②:宗教団体が政治上の権力を行使できる可能性がある

政治上の権力を行使してはならない、という文章も削除されています。

このことにより、当然ながら、特定の宗教団体が政治家または政党と癒着し、
結果として政治上の権力を行使しても、違憲扱いにならなくなります。

これはまさに、世界平和統一家庭連合(統一教会)の侵略を合法化したいということなのでしょう。

こうなれば、宗教的中立性を完全に失うことになります。
国民がキリスト教を信じたとしても、それは認められるわけだからいいんじゃない?と
軽く考えている人もいるかもしれません。

確かに、個人がキリスト教徒であろうと、仏教徒であろうと、
はたまた無宗教であろうと、そのこと自体を明確に咎められることはないかもしれません。

ですが。

政策が特定の宗教団体の意向に沿うことになるわけです。

そう、宗教団体の教えに沿うことが「公益及び公の秩序」となります。
それはもう、日本国民全員がその特定の宗教信者になるようなものですね。
税金もいわば献金となるようなものですから。

これがどんなに危険なことなのか。
そこに民主主義というものは存在しなくなりますからね。

※現在、自民党をはじめとする政治家たちが
「結婚すべき」「家庭を最小単位とする(現在は個人が最小単位)」「同性婚は認めない」
等のように発言していますが、これは実は統一教会の教えです。

政治上の権力を行使してはならない、という文章も削除されています。

このことにより、当然ながら、特定の宗教団体が政治家または政党と癒着し、結果として政治上の権力を行使しても、違憲扱いにならなくなります。

これはまさに、世界平和統一家庭連合(統一教会)の侵略を合法化したいということなのでしょう。

こうなれば、宗教的中立性を完全に失うことになります。国民がキリスト教を信じたとしても、それは認められるわけだからいいんじゃない?と軽く考えている人もいるかもしれません。

確かに、個人がキリスト教徒であろうと、仏教徒であろうと、はたまた無宗教であろうと、そのこと自体を明確に咎められることはないかもしれません。

ですが。

政策が特定の宗教団体の意向に沿うことになるわけです。

そう、宗教団体の教えに沿うことが「公益及び公の秩序」となります。それはもう、日本国民全員がその特定の宗教信者になるようなものですね。税金もいわば献金となるようなものですから。

これがどんなに危険なことなのか。そこに民主主義というものは存在しなくなりますからね。

※現在、自民党をはじめとする政治家たちが「結婚すべき」「家庭を最小単位とする(現在は個人が最小単位)」「同性婚は認めない」等のように発言していますが、これは実は統一教会の教えです。

改憲草案の問題点③:国の機関が宗教活動に関与できるようになる

現憲法の第3項において、宗教教育その他いかなる宗教的活動をしてはならないと定められています。
その対象は「国及びその機関」です。

これは、行政の監督権を持つ機関が対象となっています。
行政官庁、大臣、地方公共団体、そこに務める人たち等々。

ですが、改憲草案にでは「国及び地方自治体その他の公共団体」と、「指定」してきました。

このことによって、例えば総理大臣が「私人」として濁してきたことが
堂々と「総理大臣として」関与しても、なんら違憲でもないとされてしまう可能性が高いということです。
団体ではないからとか、
「私は”その機関”に属する者である。”その機関”という言葉は憲法からは削除されたではないか」等のように。

こういった言葉遊びで、政治家が宗教的活動を行うことが可能となってしまいます。

現憲法の第3項において、宗教教育その他いかなる宗教的活動をしてはならないと定められています。その対象は「国及びその機関」です。

これは、行政の監督権を持つ機関が対象となっています。行政官庁、大臣、地方公共団体、そこに務める人たち等々。

ですが、改憲草案にでは「国及び地方自治体その他の公共団体」と、「指定」してきました。

このことによって、例えば総理大臣が「私人」として濁してきたことが堂々と「総理大臣として」関与しても、なんら違憲でもないとされてしまう可能性が高いということです。団体ではないからとか、「私は”その機関”に属する者である。”その機関”という言葉は憲法からは削除されたではないか」等のように。

こういった言葉遊びで、政治家が宗教的活動を行うことが可能となってしまいます。

改憲草案の問題点④:「特定の宗教」とは?

現憲法においては、とにかくも「宗教全般」を対象にしています。
ですが、改憲草案においては「特定の宗教」という言葉に変わっています。

特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない」

この変更により「特定ではない宗教」の存在を作ることが可能となります。
それだけではなく「特定の宗教のためではない」教育に国が介入できることにもなります。

このことにより、いくらでも屁理屈をこねられるようになるわけです。

そうすると、一番懸念されるのは、やはり天皇に関することです。
改憲草案には、とにかく明治憲法時代のように、天皇の力を強めたいという思惑が出ています。

かつて明治憲法時代は国家神道を優遇し、それは本当に天皇とは綿密な関係にありました。
天皇を神と崇め讃えよ、という時代でもありました。

現在において、天皇は神でも教祖でもありません。
ですが、それでもなお、神道とは綿密な関係にあることに変わりはありませんし、
天皇を中心としようとすることもまた一種の宗教的要素です。

しかし、改憲されてしまうと、国が天皇を教育や政治等に利用した場合に、
「特定の宗教ではない」という理屈が、これまたまかり通りかねない内容なわけです。

つまり、国が天皇を利用しやすくなるわけです。

繰り返しになりますが、現憲法においては「特定の」等という言葉は入っていません。
ですので、実は天皇に関する活動はすべて、基本的に宗教的なものということから始まり、
違憲ではないかどうか?というチェックが入っています。

例を出しますと、
新嘗祭に関しても、天皇が参加するその費用は公的費用なのか?私的費用なのか?という議論がありました。
最終的には公的扱いとなりましたが、このように厳しくチェックが入り、議論が起きるわけです。
現憲法においては、とにかく、国家権力側が天皇を政治的利用できないようにされているのです。

ところが、特定という言葉を入れてしまうことによって、
屁理屈をこね、しかもその屁理屈がまかり通りかねない状況になるのですね。

その結果、明治憲法時代のように、国によって天皇に関する教育が無制限に行われるようになるでしょう。
それは軍国主義、民主主義の崩壊へとまた結びついていきます。
これは第1条にて天皇を元首にしようとしているとかそういったことからも読み取れます。

現憲法においては、とにかくも「宗教全般」を対象にしています。ですが、改憲草案においては「特定の宗教」という言葉に変わっています。

特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない」

この変更により「特定ではない宗教」の存在を作ることが可能となります。それだけではなく「特定の宗教のためではない」教育に国が介入できることにもなります。

このことにより、いくらでも屁理屈をこねられるようになるわけです。

そうすると、一番懸念されるのは、やはり天皇に関することです。改憲草案には、とにかく明治憲法時代のように、天皇の力を強めたいという思惑が出ています。

かつて明治憲法時代は国家神道を優遇し、それは本当に天皇とは綿密な関係にありました。天皇を神と崇め讃えよ、という時代でもありました。

現在において、天皇は神でも教祖でもありません。ですが、それでもなお、神道とは綿密な関係にあることに変わりはありませんし、天皇を中心としようとすることもまた一種の宗教的要素です。

しかし、改憲されてしまうと、国が天皇を教育や政治等に利用した場合に、「特定の宗教ではない」という理屈が、これまたまかり通りかねない内容なわけです。

つまり、国が天皇を利用しやすくなるわけです。

繰り返しになりますが、現憲法においては「特定の」等という言葉は入っていません。ですので、実は天皇に関する活動はすべて、基本的に宗教的なものということから始まり、違憲ではないかどうか?というチェックが入っています。

例を出しますと、新嘗祭に関しても、天皇が参加するその費用は公的費用なのか?私的費用なのか?という議論がありました。最終的には公的扱いとなりましたが、このように厳しくチェックが入り、議論が起きるわけです。現憲法においては、とにかく、国家権力側が天皇を政治的利用できないようにされているのです。

ところが、特定という言葉を入れてしまうことによって、屁理屈をこね、しかもその屁理屈がまかり通りかねない状況になるのですね。

その結果、明治憲法時代のように、国によって天皇に関する教育が無制限に行われるようになるでしょう。それは軍国主義、民主主義の崩壊へとまた結びついていきます。これは第1条にて天皇を元首にしようとしているとかそういったことからも読み取れます。

改憲草案の問題点⑤:国による宗教関連活動が「無制限」になる可能性

一応改憲草案においても宗教的活動はするなよとは書かれていますが、以下の文章も追加されています。

ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない。

改めて書きますと、現憲法において、
「国やその他機関(地方公共団体等も含む)による宗教的活動や教育は全て違憲である」が原則です。
その中から、裁判による議論によって、「例外」として認められるケースもあるわけです。

例えば、市所有の体育館を建てるための地鎮祭の費用を公的から出すことに問題ないか?
という裁判もありました。

この時は、そのこと自体に宗教的意義・宗教への援助や助長に関与しているとは言えないため、
違憲ではないという判断となりました。
ですが、これも「あくまでも例外である」という判断の下での判決です。

ところが、改憲草案ではその「原則と例外」が逆転してしまいます。

認めるのが原則。わざわざ裁判で検証しなくてもいいよ、というのが原則となってしまいます。

また、当然、この「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」を時の政権が決められるようになれば、
もしくはそのように世論を持っていけば、
それこそも、国家権力側がどっぷり宗教的活動を行おうと、なんら問題がなくなってしまうわけです。

それはつまり、宗教においても、
国家権力側に歯止めをかけるものがなくなってしまうということです。

※信者を動員して票を集めることも習俗的行為のひとつだと言われかねないかもしれませんね。

一応改憲草案においても宗教的活動はするなよとは書かれていますが、以下の文章も追加されています。

ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない。

改めて書きますと、現憲法において、「国やその他機関(地方公共団体等も含む)による宗教的活動や教育は全て違憲である」が原則です。その中から、裁判による議論によって、「例外」として認められるケースもあるわけです。

例えば、市所有の体育館を建てるための地鎮祭の費用を公的から出すことに問題ないか?という裁判もありました。

この時は、そのこと自体に宗教的意義・宗教への援助や助長に関与しているとは言えないため、違憲ではないという判断となりました。ですが、これも「あくまでも例外である」という判断の下での判決です。

ところが、改憲草案ではその「原則と例外」が逆転してしまいます。

認めるのが原則。わざわざ裁判で検証しなくてもいいよ、というのが原則となってしまいます。

また、当然、この「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」を時の政権が決められるようになれば、もしくはそのように世論を持っていけば、それこそも、国家権力側がどっぷり宗教的活動を行おうと、なんら問題がなくなってしまうわけです。

それはつまり、宗教においても、国家権力側に歯止めをかけるものがなくなってしまうということです。

※信者を動員して票を集めることも習俗的行為のひとつだと言われかねないかもしれませんね。

現憲法をもう一度読む

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

後記

各条文の記事でよく書いていますが、日本国憲法を守るべきはあくまでも「国家権力側」です。
国民を、民主主義を守るために。

ですが、改憲草案はそういった立場を「逆転」させています。
この条文もしかり。

国民の宗教の自由を守るために、宗教的思想を政治に持ち込ませないために。それが現憲法。
国民の宗教の自由を制限し、宗教的思想を政治に持ち込めるようにしているのが改憲草案。

日本は今のところ色んな宗教がごった煮になっているので、
あまり実感のわかない人も多いかもしれませんが……

改憲されると、特定の宗教の教えが深く政治に関わることが容易になってきます。
知らず知らずのうちに、私たちもまたその宗教の信者にさせられるようなものです。
税金という名の献金をさせられます。

そして宗教の教えに反する者は「公益及び公の秩序」に反したとなるでしょう。

そのような日本に、民主主義というものは存在しなくなります。
私は、そんな国になって欲しくないと心の底から思っています。

各条文の記事でよく書いていますが、日本国憲法を守るべきはあくまでも「国家権力側」です。国民を、民主主義を守るために。

ですが、改憲草案はそういった立場を「逆転」させています。この条文もしかり。

国民の宗教の自由を守るために、宗教的思想を政治に持ち込ませないために。それが現憲法。国民の宗教の自由を制限し、宗教的思想を政治に持ち込めるようにしているのが改憲草案。

日本は今のところ色んな宗教がごった煮になっているので、あまり実感のわかない人も多いかもしれませんが……

改憲されると、特定の宗教の教えが深く政治に関わることが容易になってきます。知らず知らずのうちに、私たちもまたその宗教の信者にさせられるようなものです。税金という名の献金をさせられます。

そして宗教の教えに反する者は「公益及び公の秩序」に反したとなるでしょう。

そのような日本に、民主主義というものは存在しなくなります。私は、そんな国になって欲しくないと心の底から思っています。

この第20条とも繋がりの深い条文は以下の通りです。
(リンクの文章は記事のタイトルではなく、関連がわかるような紹介文にしています)
興味のあるところを是非。

この第20条とも繋がりの深い条文は以下の通りです。(リンクの文章は記事のタイトルではなく、関連がわかるような紹介文にしています)
興味のあるところを是非。

最後まで読んでくださってありがとうございました!

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